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コラムジュディ虹の彼方に

第28話ジュディ虹の彼方に

2020/03/25

このコラムを見てくださっているダンス愛好家の皆さんの中には、人生で忘れられない晴れ舞台はありますか?私は大さん橋ホールでB級に昇級した時のC級戦です。その後にA級になった瞬間も思い出深いものですが、長い長いC級での停滞期を経た後、みんなが応援してくれた中での昇級の方が感慨深いものがありました。
大きなところではフレディー・マーキュリーがソロ活動から戻ってきたQueenにライブエイドがあったように、ジュディ・ガーランドには1961年のカーネギーホールや1968年のロンドン公演がありました。そんな彼女の最晩年を中心に描いた自伝的映画が「ジュディ虹の彼方に」です。

あらすじ



GAGA公式PV



かつてはミュージカル映画の大スターとしてハリウッドに君臨していたジュディ・ガーランドが窮地に立たされていた。1968年、度重なる遅刻や無断欠勤のせいで映画出演のオファーが途絶え、今では巡業ショーで生計を立てているのだが、住む家もなく借金は膨らむばかり。まだ幼い娘と息子をやむなく元夫に預けたジュディは、ロンドンのクラブに出演するために独り旅立つ。英国での人気は健在だったが、いざ初日を迎えるとプレッシャーから「歌えない」と逃げ出そうとするジュディ。だが、一歩ステージに上がると、たちまち一流のエンターテナーと化して観客を魅了する。ショーは大盛況でメディアの評判も上々。新しい恋人とも巡り会い、明るい未来に心躍るジュディ。だが子どもたちの心が離れていく恐れと、全存在を歌に込める疲労から、追い詰められついには舞台でも失態を犯してしまう──
©GAGA



再現度がすごい


とりあえず、度肝を抜かれた再現度がこちら。




え、すごくない?

ジュディ・ガーランドを演じたのは、「ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期」などで有名なレニー・セルウィガー。レニーは女優として大人気を博した後、6年に及ぶ休業期間を取っていました。
「あれは、やらなきゃいけないことだった。あの頃の私の生活は、ヘルシーではなかったから。自分はこれを期待されているという理由だけで、仕事を入れていた」
休業に至る状況を、とあるインタビューではそんな風に答えています。「ジュディ虹の彼方に」の撮影のためにも、1年間という準備期間を設けて歌のトレーニングに充てています。そもそもレニー本人とジュディでは声の太さが全く違うため、体のパーツに分けて徹底的に分析し技術的にカバーすることでジュディの再現を可能にしたのだとか。

そんな風に自分の体や生活のあり方を理解し、労わり、仕事に対する準備を怠らないレニーが、それができなかったジュディを演じるというのもなんとも皮肉なものです。同じ映画業界でもこうも環境が変わるのかと、ジュディがいた頃のハリウッドの闇がくっきりと見えてくるような気がします。



ジュディに刻まれたハリウッドの闇


映画はジュディの最晩年を描いていますが、個人的にも大好きなジュディ・ガーランドなので、全盛期からの歩みもぜひ知ってほしい!
2歳で初舞台に立った時は、二人の姉と共に子役として活動していました。ステージママだったジュディの母が三人の中でも傑出した才能を持つジュディに目をつけ、13歳で当時最大手の一つである映画スタジオMGMにジュディを売り込み、最初は端役で映画に出演するところからキャリアがスタートします。

もちろん、最大のヒット作といえば「オズの魔法使、The Wizard Of Oz」ですよね。テーマソングの「虹の彼方に Over the Rainbow」はジュディが生涯歌い続けた名曲です。「ジュディ虹の彼方に」では魂の叫びのように歌い上げられていますが、「オズの魔法使」では心に沁みるような優しい響きを聞くことができます。主役のドロシーのキャスティングには、当時の大人気子役だったシャーリー・テンプルの起用が検討されていましたが、スケジュールの都合でジュディに役が回ってきたのです。この映画のヒットにより、ジュディは一気にスターダムへと駆け上がっていきます。





1940年代〜1950年代にジュディはハリウッドで最盛期とも言える活躍を続けますが、当時のハリウッドでは子役のための労働規制などが全くなかったので、仕事をする時は神経を高揚させるような薬を、空き時間には効率よく体を休めるために睡眠薬を普通に与えていました。ダイエットのために覚醒剤まで…ジュディは知らず知らずのうちに薬物依存になっていき、それが彼女の人生に影を落としていったのはご存知の方も多いと思います。特に日本ではこの辺りのエピソードだけが有名だったりするのが切ない。この頃のハリウッド、マジで鬼畜です。
その影響で遅刻・無断欠勤が常習となり、体型が撮影期間中に変化しすぎて絵が繋がらないなどの害が出てきます。ミュージカルとしては素敵な作品の「Summer Stock」での体型の変化はヤバイです。時には楽屋に立て籠もって出てこなかったりと、健康被害と悪評が徐々にジュディを蝕んでいきます。

それでもダンスの振りを一度見れば覚えられたり、演技すれば一発テイクでOKが出たりと、ジュディはやっぱり天才でした。1940年代のジュディは信じられないほど多くの映画に出演しています。ミッキー・ルーニーと組んでコンビで出演したシリーズが特に立て続けに大ヒット。日本国内で正規版の販売がないせいか、ジュディの活躍の方はあんまり知られていないような気がするんですよね(販売熱望)。
けれど「アニーよ銃をとれ」の撮影中に撮影が続けられなずに、映画はお蔵入り。1950年MGMはついにジュディを解雇しました。あれだけ働かせたクセに〜!



面白くて、優しくて、本当に素晴らしい人だったの



1954年、4年間映画界から干されてきたジュディは3度目の夫であり、映画プロデューサーであるシドニー・ラフトと再起をかけて「スタア誕生」の撮影に挑みます。これは1937年に公開された同名映画のミュージカル版リメイク。2018年に公開されレディ・ガガが主演を務めたことで話題になった「アリー/スター誕生」も、本作のリメイクの一つです。これまで2度のリメイクを繰り返していることからも分かる通り名作中の名作で、ジュディ版も大ヒットを飛ばします。
劇中劇のBorn in a trunkは特に圧巻の一言。けれど、相変わらずの遅刻癖で配給元を怒らせたことなどが影響し、アカデミー賞主演女優賞確実と見られていたにも関わらず受賞を逃してしまうのです。

その後のジュディが最も輝いていた瞬間の一つが、1961年のカーネギーホールのコンサートです。「ショービズ界で最も素晴らしい夜」とも言われ、アルバムも発売されグラミー賞を獲得しました。つまり、ジュディはアカデミー賞の受賞を逃して荒れた生活に陥りながらもコツコツと努力を続けていたことが見て取れます。「ジュディ虹の彼方」では歌えなくなっていたような描写がありましたが、そうでもなかったんじゃないかな?と個人的には思ったりもします……どうなんだろ。
1960年代はこのカーネギーホールでの輝きがありながらも、薬物依存と神経症に苦しめられ、5度目の夫ミッキー・ディーンズとも離婚。1968年のロンドン公演に挑む……というあたりを重点的に扱っているのが「ジュディ虹の彼方」です。

ちなみにジュディが1945年に結婚した映画監督ヴィンセント・ミネリとの間の娘が、女優であるライザ・ミネリ。この頃のジュディの写真は、人生の中で最も幸せを謳歌しているように見えます。ライザは本作の製作に関しては「どんな形であれ支持したり認めたりしていない」と公言していますが、母と共演したビデオをSNSで公開するなど思慕の情を今も抱いている模様。だからこそ、返って本作を認めることができないでいるような気がします。

後年、ジュディの親友だったジューン・アリソンがあるインタビューでこんな風にジュディのことを語っています。
「ジュディの悪い面ばかりが注目されるけど、彼女は面白くて、優しくて、本当に素晴らしい人だったの。こうして話しているだけで泣きそうよ」
「ジュディ虹の方に」も悲しいトーンの映画ではあるのですが、本作をきっかけにジュディの素敵な面もたくさん知られるといいなと思う今日この頃です。

3/6から公開された本作、当コラムが掲載時点で引き続き公開中です。
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