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コラム私の社交ダンス/久米正雄 【前編】

第4話私の社交ダンス/久米正雄 【前編】

2019/02/5


1. あらすじ



明治の小説家であり、劇作家また俳人でもある久米正雄は、友人の勧めでダンスホールに初めて足を踏み入れる。

「なんだ、こんなものだったら、俺にだってすぐにできそうだ」

そう高をくくって、一歩を踏み出してみるものの……。

(引用:青空文庫 日本の名随筆 別巻96 大正)

(出版社:作品社  1999(平成11)年2月25日第1刷発行)





2. 日本の社交ダンスの黎明



映画・TV番組・漫画と銘打っているこのコラム。本日はいきなり看板に偽りありで、近現代の私小説の紹介です。明治〜大正の作家の久米正雄という人が、社交ダンスを始めてから夢中になるまでを、今でいうエッセイとして執筆しているのを読者のみなさんはご存知でしょうか。


まず、久米正雄の人となりについて、簡単にご紹介しましょう。彼は夏目漱石の門人の一人で、なかなかお騒がせな人物だったようです。特筆すべき出来事としては、漱石の長女筆子に恋をして結婚を申し込みますが、反目しあっていた別の作家(一説によると山本有三)に怪文書を送りつけられたり、有る事無い事噂を流されたりして破談になってしまいます。


ところが、転んでもただでは起きないのが久米正雄のすごいところで、その経験を元に、一連の私小説や通俗小説を執筆して発表します。殊に1922(大正11)年になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を『婦人之友』に連載し、これが主に女性読者からの同情を集め、自身は芸術小説に強く憧れを持ちながら、通俗小説の方で有名になっていきます。


天台宗の僧侶であり、大正時代の作家「今東光(こんとうこう)」は、「小説家松岡譲について・その1」の中で、
「当時、漱石の家へは、菊池、久米、芥川、松岡が出入りしていた。そして、長女筆子をめぐる漱石門下の葛藤があり、久米対松岡のライバル関係、そして悲恋の久米に同情したのが菊池と芥川」
と書いています。しかし、漱石が本当に婿に欲しかったのは芥川だったのだとも言っています。久米正雄は醜男だし、小説を書く態度がどうもよろしくないということで、漱石の門下生の中ではどちらかというと落第生だったようです(これには、漱石の門人たちがかなり小説の執筆に対して厳格な態度を求められていたということも関係していたようです)。


久米は関東大震災に遭遇した折、長谷寺へ避難したことが縁となり、1925(大正14)年に鎌倉に移住し、そこが終の住処となりました。1932(昭和7)年、鎌倉の町議にトップ当選しましたが、一方、花札賭博で有名作家ら14人と一緒に検挙され、菊池が身元引き受け人となって身柄を引き出したりもしています。


あまり美男とは言えないながらも、自身の醜聞を元に小説を書き、名前を売ってしまったり、花札で捕まってみたり、なかなか好奇心旺盛で危ないことにも首を突っ込んでしまうタイプの人物だったようですね。


しかし、そんな久米でなければ当時の世の中で、社交ダンスに興味を持つことはなかったのかもしれません。

ご承知の通り、井上馨を中心に進められた欧化政策により、国賓や外国の要人を接待するために1883年に建てられた鹿鳴館。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼びます。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもありました。


その中で導入されたのが西欧のいわゆる社交ダンスで、現代のそれとは多少形は違えど、ここが日本の社交ダンスの黎明であると言えるでしょう。もちろん当時の日本人がダンスと馴染みなどありませんでしたから、特別に訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたといいます。そんな西欧の文化に馴染もうとする日本人の様子は、接待されている外国人からも「滑稽」と揶揄され、国粋主義者からは批判されていました。


なかなか日本の社交ダンスの船出は、厳しいものであったことが見て取れます。



3. 全く社交ダンス程、入り易くて、達し難きものはない



久米正雄が社交ダンスに出会ったのは、鹿鳴館時代からは少し時代が下ってからのこと。ある日友人と暇を持て余して街をそぞろい歩いていたところ、
「どうです。そんなら僕らのダンス場へ行つてみませんか」
と友人に誘われます。この頃には、数は多くはないものの、市井の中にダンスができる場所がそれなりにできていたようです。


実は文豪の中では、谷崎潤一郎も社交ダンスの愛好家だったことはよく知られている話で、1922(大正13)年に出版された『芸術一家言』というエッセイ集の中に、『私のやつてゐるダンス』という作品があるのです。久米正雄のエッセイのタイトルともそっくりですね。これによると
「始めは妹が友達の西洋人から教はつて来て、それを家で流行らせた」
とあるので、おそらく、当時の妻である千代の妹、せいが谷崎家へ持ち込んだのではないかと思われます。


この事は、久米正雄の『私の社交ダンス』で、谷崎潤一郎が「谷崎令妹葉山三千子」や家族と共にダンスホールに踊りに来ていた事と一致しています。葉山三千子は、せいの女優としての芸名です。谷崎潤一郎は、この自由奔放な性格の葉山三千子に惹かれてしまい、事もあろうに義理の妹であるにも関わらず、求婚してふられるという失態を演じてしまいます。この恋愛を元に書かれたのが『痴人の愛』で、葉山三千子はヒロインのナヲミのモデルだとされています。あの文学作品にも、社交ダンスは影響を与えていたようですね。


さて、久米正雄の社交ダンスに対する所感はどうだったのでしょうか。

この当時、やはり社交ダンスはそれなりにいかがわしいのものだと捕らえられていたようです。一緒に行った友人には
「ダンスなんて一瞬のぐわん(癌)みたいなもの」
と評されるも、ああいう世界を頭から拒絶してしまうのは、むしろああいうものに負けることだという謎の反骨精神で、ダンスを始めることを決意します。もしかすると、友人の手前そう強がっただけで、この時には理由なくダンスに惹かれたような気がします(笑)。読者の皆さんはどうお思いでしょうか?


そうして社交ダンスの世界に飛び込んだ久米ですが、すぐにその魅力にハマってしまいます。当時いかがわしいと思われていたダンスですが、久米はすぐに、
「性的な事などを、考へる余裕もない程、如何(いか)に踊るべきかに就いて、焦慮し専念されてゐるのだ。」
とダンスがそんな浅薄なものではできないことに気づかされます。これは、社交ダンスを実際にやってみると誰もが感じることかもしれませんね。そして、ある日、平岡夫人という社交ダンスの経験者に踊ってもらう機会を得て、
「……平岡夫人は併(しか)し懸命に、此の何時(いつ)踏み間違ふか分らない私の足を、敏感に予知してうまく従いて来て呉れた」
「少しの間でも、自分のステツプが一人前らしくなだらかに行くと、何だか天地の音律(リズム)と合致したやうな、一種の愉悦の念を覚えて来た」
と少し踊れるようになった喜びに、味をしめてしまうのです。


とはいえ、いいことばかりでもなかったようで、
「いや、併し誰でも、一度は断られたり、侮辱されたり、ひどい目に会はされて来たんですよ。僕なんぞも或る女に申込んで、疲れてゐるからつて断られたのに、ふいと見ると今現に断つた女が、うまい西洋人と一緒に踊つてゐるのを見て、腹を立てた事がありましたよ」
と場所を同じくした同好の士に聞かされて、頷いてしまうことも。誘ったのに振られてしまい、振られた相手が自分より上手な人と気持ちよさそうに踊っている姿に哀愁を感じるなどという状況が、いつの時代でも起こり得たのが興味深いですね。


そうして、すっかり社交ダンス愛好家となった久米は、
「私は浅草あたりに、一つ民衆ダンス場を拵(こしら)へたいとさへ思ふ。ダンスは由来民衆的なものなのだから。……」
とまで思うほど社交ダンスにはまってゆくのです。


この執筆後、久米正雄がどれほど社交ダンスにのめり込んだのかは想像の域を出ないのですが、例の花札賭博で捕まった時、実は警視庁が捜査していたのは社交ダンスの教師との不倫事件が思わぬ方向へ転がった余波だったそうですから、付かず離れずダンスとの縁が続いたのかもしれません。


いつの時代も変わらないダンスに飛び込んだ愛好家の悲喜こもごも、ぜひ味わってみてはいかがでしょうか。文章は旧仮名遣いで書かれていますが、そう読み解くのに難しくはないですよ。



後編へ続く…



「題字イラスト/月城マリ」