2020/07/25
7月17日、20世紀の大スター、ジジ・ジャンメールがスイスのトロシェナーズにある自宅で安らかに息を引き取りました。彼女は、生涯のパートナーであったローラン・プティ振付の「カルメン」で一世を風靡し、その後のダンサーとしての地位を確固たるものにしました。
ジプシーの女工カルメンは、セビリアの煙草工場で喧嘩騒ぎを起こし、牢に送られることになった。しかし護送を命じられた伍長ドン・ホセは、カルメンに誘惑されて彼女を逃がしてしまう。パスティアの酒場で落ち合おうといい残してカルメンは去り、カルメンの色香に迷ったドン・ホセは、婚約者ミカエラがいるにも関わらずカルメンへの恋心に惑わされる。その時、既にカルメンの心は闘牛士エスカミーリョに移っていた。カルメンは、嫉妬に狂ったドン・ホセによって復縁を迫られて刺し殺される。
画像©パリ・オペラ座バレエ団
ジジの夫は言うまでもなく、元ダンサーで偉大な振付家のローラン・プティです。世界的バレエ団でありバレエダンサーには狭き門として知られるパリ・オペラ座に1940年代に入団し、徐々に実力を認められて振付の才能を早くから発揮していました。当時、ナチス・ドイツからのパリ解放の熱気に満ちた世情の中で、コクトー、コフノ、ベラール、ソーゲらバレエ・リュスの流れをくむ芸術家たちとの深い関わりを通じてインスパイアされていきます。
1945年、彼らと共にシャンゼリゼ・バレエ団を結成。その時、プティは20歳を過ぎたばかりです。初期の傑作『若者と死』(1946年)はコクトーの台本とアイディアに拠るところが大きいと言われています。1948年にはパリ・バレエ団を旗揚げし、斬新な『カルメン』で大成功を収め、パリのみならずロンドン、アメリカを席巻し、世界的な評価を受けることになりました。
一方のジジも1939年にパリ・オペラ座に入団し、バレエ学校時代から同級生だったプティと同時に退団。その後、プティはジジを自らのミューズとして、彼女のために数々の作品を作ったのです。
1950~60年代には、ジジを伴ってハリウッド・ミュージカルで活躍しました。1965年には20年ぶりにパリ・オペラ座に戻り、故郷に錦を飾る形で『ノートル・ダム・ド・パリ』を振り付けています。1972年、フランス国立マルセイユ・ローラン・プティ・バレエ団の芸術監督に就任。以来、『プルースト――失われた時を求めて』『コッペリア』『眠れる森の美女』など、古典の再解釈からレビュー風の作品まで次々と新作を生み出しました。2011年7月10日、惜しまれながらこの世を去りました。
日本との関わりも深く、1999年Bunkamuraオーチャードホールでプティが振り付けた『ボレロ』が世界で初演を迎えています。踊ったのは熊川哲也さんです。
話は1949年に戻ります。プティの振付で新版『カルメン』が発表され、ジジがショートカットのヘアスタイルで100万ドルとも言われた脚線美を惜しげもなく披露しました。
この斬新なカルメンの解釈と、センセーショナルなジジというダンサーのおかげで、カルメンはプティの代表作になりました。
プティ版は元々オペラ作品であったカルメンを、タバコ工場、酒場、寝室、通り、闘牛場の前の1幕5場に構成し、45分程度にまとめたものです。魔性の女カルメンと彼女に翻弄されるドン・ホセのドラマに焦点を合わせているのが特徴で、最も有名なのが寝室の場面です。カルメンとドン・ホセがカルメンの寝室を舞台に愛を語り合い、従来のカルメンよりエロティックで現代的です。
プティはカルメン以外にも、ファム・ファタル(運命の女)に翻弄され絶望し、死と直面することになる若者をテーマに『アルルの女』、『若者と死』を発表し、これらは『カルメン』と合わせてプティを代表する三作品と言われています。正に、ジジによるカルメンはプティのその後の方向性を示す作品であったとも言えます。
件のボレロを踊った熊川哲也さんも、カルメンを踊っています。
2006年にNHKホールで上演された動画が残っていますが、プティとジジが踊ったのが上品に見えるほど濃密なエロティシズムが強調されています。私生活でも夫婦であったプティが軽くキスするだけなのに対し、お互いに体をしならせ、何度もキスを交わす様は自分たちの新しいカルメンはこれだ!と主張しているかのようです。
とはいえ、ヘアスタイルに衣装、脚線美を生かした振り付けはプティとジジのスタイルを踏襲しています。それだけ、ジジとプティが作り出したスタイルがリスペクトされているのでしょう。
ジジとプティの出会いは、なんとパリ・オペラ座バレエ学校に在籍した9歳の時でした。ジジは60代になっても舞台に立ち、プティは80代においても現役の振付家として活動しました。プティは2011年に亡くなりましたが、生涯、唯一無二のパートナーであったことは語るまでもありません。
ジジはパリ・オペラ座を退団した後、ショービズ界の女王として君臨し、ハリウッドにも進出。1952年の『アンデルセン物語(Hans Christian Andersen)』や、1956年の『夜は夜もすがら(Anything Goes)』などに出演しました。その後は、再びプティとともにバレエに絞って活動を続けていました。
享年は96歳でした。ご冥福をお祈りいたします。