山内
今日は朝からありがとうございます。いろいろ話を聞かせて頂きますので、よろしくお願いします。
小鳥さん
本日はこのような機会を頂きありがとうございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。
山内
小鳥さんの活動の始まりは2011年頃に作成したホームページ「Yes,ボールルームダンス」でしたよね?
小鳥さん
はい。サイトの内容としては、競技会情報のまとめや全国ダンス教室図鑑、そしてダンサーたちのニュースを国内外問わずにどんどんUPしていました。社交ダンスのことを知りたいなと思った時に、未経験者からプロまで利用してもらえる総合情報サイトを作りたかったんです。
今でこそ、いろいろなSNSで社交ダンスの情報を集めることができるようになったけど、当時は専門サイトが全く無かったんです。ダンスビュウもダンスファンもWebサイトはほとんど稼働していなかったし。それなら自分でサイトを作ってしまおうと思い立ったのが最初です。
山内
そもそも、小鳥翔太さんは現役のダンサーという立場で活動を始めたわけですよね?
小鳥さん
そうですね。今でも現役で競技会に出場させてもらっていますが、当時はダンスをはじめて10年目くらいだったと思います。
山内
現役の選手であり仕事もしながらこのような活動をするというのは並大抵のことではないと思うのですが、どうして普及活動に携わるようになったんですか?
小鳥さん
大々的に社交ダンスの普及活動をやろうなんていうつもりはなかったんですが、ダンスをしていると、みんなが「社交ダンス、もっと世の中に広まるといいのにね」ということを口癖のように話しているんです。でも、本当の意味で世の中に普及させるような活動をしている人はほとんどいなかった。だったら自分でやってみようかな、と。そんな感じですね。
山内
そこで自分一人でやろうという行動力がすごいですよね。「Yes,ボールルームダンス!」のサイトも0から一人で作成したとのことですが、サイトを実際に開設した2011年というと、震災の年ですね。
小鳥さん
そうなんです。東日本大震災も、実際に行動に移す大きなきっかけの一つでした。あの時、僕たちはみんな、自分たちの無力さに打ちひしがれていました。東京も震災の影響でまともに仕事ができる状況ではなかったし、ましてや「趣味の一つ」である社交ダンスを楽しく踊るような雰囲気ではなかったんです。被災地に近ければ近いほど、生活をしていくことで精一杯でしたから。
山内
本当に大変な出来事でしたからね。
小鳥さん
そうですね。そしてこの危機的な状況下では、自分たちの人生の全てであったはずの社交ダンスが、「生きる」という観点で突き詰めていくと「必要がないもの」なんだと突きつけられているようで、とても悲しい気持ちになったことを鮮明に覚えています。
ですが、そんな中でも社交ダンスを楽しむことで笑顔になったり、心の安らぎになる人がきっといると信じて、「そうだ、こんな時だからこそ社交ダンスがあるじゃないか」という意味を込めて「Yes,ボールルームダンス」というサイト名にしたんです。
構想期間1年&準備期間1年を経て、2011年3月、ついにサイトが立ち上がりました。
山内
ここから小鳥翔太の活動が始まっていったのですね。
山内
現在のように、イベントのオーガナイザーをはじめとする様々な活動を行なっていくきっかけは何だったんでしょうか?
小鳥さん
大きなきっかけは、週刊少年ジャンプで連載されていた競技ダンス漫画「背すじをピン!と〜鹿高競技ダンス部へようこそ〜」(2015年24号から2017年11号まで連載・著者:横田卓馬)のエグゼクティブディレクターを担当させてもらったことと、乃木坂46の市來玲奈さん(現在は日本テレビアナウンサー)の卒業イベントに関わらせていただいたことの2つだったと思っています。
山内
週刊少年ジャンプの連載作品や乃木坂46の市來玲奈さんの卒業イベントというと、いきなり大きな話のような気がするんですが、もともと関係する知人でも?
小鳥さん
いや、それが全くの0からですね。横田先生のことは「背すじをピン!と」の前身となる読み切り作品「競技ダンス部へようこそ」の頃から一方的に知っていて、ある時横田先生のスタッフさんのTwitterに何気なく書き込みをしたんです。そしたら一度会いましょうという話になり、そこで初めて「週刊少年ジャンプ」で競技ダンスの漫画を連載することになるかもしれないと聞きました。
色々とお話をさせて頂いた結果、漫画が始まる1年前の企画段階から関わらせて頂くことになったのですが、自分が漫画全般について知識が豊富(元漫画研究同好会会長)だったことも大きな要因だったと思います。
山内
市來玲奈さんのイベントについては?
小鳥さん
市來さんは元々競技ダンサーで、ジュニアの日本代表として活躍していたのは有名な話ですが、乃木坂46に入ってからもビッグコンペなどを観戦に来られていて、そのようなときに何度かお話をさせていただく機会がありました。
市來さんの卒業が決まったときに卒業企画実行委員会の皆様と連絡を取り合い、彼女が得意な社交ダンスを生かした卒業記念イベントにするべく企画を練っていきました。
結果、乃木坂46の曲に合わせて市來さんとステッピーが踊ることになったのですが、ファンの方々も初めて見るステッピーを大歓声で受け入れてくれて嬉しかったですね。
小鳥さん
どちらの話も「Yes,ボールルームダンス」が2−3年経ち、少しずつですが社交ダンス界隈での認知度が高まってきていた頃でした。それまで誰にも会わずに一人でコツコツ更新し続けていたことが実を結んだのだと思っているのですが、形に残る結果が出て嬉しかったですね。
山内
何もないところからきっかけを作って、一点突破していく行動力が半端無いですね。
小鳥さん
そうですね。でも、本当にいろいろな巡り合わせがあって、そういう流れになりました。人と人との想いと繋がりに、本当に感謝しています。
あとはチャンスが来るのを待つのではなくて、あらゆるところからチャンスの切れ端を探して、それをこっちから積極的に捕まえにいくことができたのだと思っています。
ま、それができるくらい暇だったんですね(笑)
山内
AUDREYの活動にはたくさんの方々が協力していますよね。僕との出会いは2014年でした。
小鳥さん
はい。山内さんとは最初はTwitterでコンタクトして、すぐに会おうという話になりましたね。当時まだダンスファン(株式会社白夜書房)に勤めていた山内さんと、ムーアカップの途中で東京ドームホテルのロビーでお会いしたこと、今でも鮮明に覚えています。
ダンサーで最初にお会いしたのは本池淳先生でした。新宿三丁目の沖縄料理さんに行ったのですが、当初行く予定だったお店がやってなくて、どうしても本池先生が沖縄料理食べたいということで、ウロウロ歩き回りました。初対面なのに気兼ねなく話が出来る人で、すっかり感服したのを覚えています。
次は大西大輔先生。本池先生が「大西先生は社交ダンスを広げる活動をするには絶対に必要な人だから」と言って紹介してくれました。その後、舞台「FOCUS」を立ち上げるなど精力的に活動されていて、微力ながらそれらの活動に少しずつ関わらせて頂いています。今では一番よく会って、話を聞いて頂いたり食事をしたりと、とても仲良くさせて頂いているダンサーです。
山内
伝説の『西方会』初期メンバーですね。
小鳥さん
そうそう。当時、チャコットの西方さんと山内さんと僕の3人を中心メンバーとして結成していた『西方会』に本池先生と大西先生も加わってくれて。池袋西口のお店をはしごして、明け方までダンス界の未来について熱く語り合ったのが懐かしいです。
そして、その時に各々がこれからの「夢」として語っていたことのほとんどを実現している事実がスゴいなと思います。みんなやると言ったらやるメンバーが集まったのだと思います。
山内
金光進賠先生と出会ったのは、その後ですか?
小鳥さん
川上弘祐先生の尽力により実現した、ももいろクローバーZのライブ「ももいろクリスマス2014」にプロダンサーが多数出演したのですが、おそらくその時が初対面ですね。
その後、2015年2月11日の初演を皮切りに始まった舞台「DANCE WITH ME!!」の取材に伺わせて頂いたところから、色々とお話をさせていただく機会が増えました。金光先生のパワーは本当にすごいものがあって、多くの人と心を動かすエネルギーに圧倒されました。
山内
僕、「DANCE WITH ME!!」の初回公演で金光先生が「舞台が終わって小鳥翔太がすごく泣いてて、この人いい人だなって思った」って言ってたのすごく覚えてますよ。
小鳥さん
え!そんなことあったんですか!初めて聞いた(笑)。
その金光先生はもちろん、今挙がっている山内さん・本池先生・大西先生の個々のエピソードだけでも一つの短編になるくらいたくさんの思い出があります。
あとはラジオ番組「DANCE WAVE」の加地卓先生にも色々なことを相談したりとすごくお世話になったし、縁があってほぼ全てのイベントに参加して頂いた秋元奈美先生や、ほぼ全てのイベントで司会を務めて頂いた黒田知沙さん、そしてその時々の各選手会の会長である庄司先生・田原先生・菅井先生・瀬古先生・石原正敏先生、さらにはチャコットさん・タカダンスさん・クリスアンクローバーさん・ジャンティさん・ハセベさんなどのダンス関連企業様など、挙げていったらキリがない程たくさんの人々に助けられてきました。
全員の名前を挙げる事が出来ずに申し訳ないのですが、今まで関わって下さった全ての皆様に、本当に心から感謝しています。。
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